ケツァルコアトルって何?

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迫害とテロリズムの罪と罰、そして、正義とは?<テロリズム>

<テロリズム>

もう一つの重要なテーマ。

テロリズムである。

テロリズムは自然発生的には存在しない。
そして、人という種以外の種には、テロリズムというものは、存在しない。
なぜ、そう言いきれるのか?
答えは、迫害の中に隠されている。
迫害する者は「それを実行するに足る正当な理由が存在する」という動機を大義とし、迫害を実行に移す。

そして、迫害をする者にとって、この大義とは「正義」なのである。
正義であるからこそ、堂々と迫害するのである。

この「正義」という概念が、実に厄介な代物なのである。
国家レベルにおいては「安全保障」、宗教レベルにおいては「神の裁き」と解釈される。

迫害によって虐げられた者は、自己の生存権、正当性、無罪を主張するものの、それが聞き入れられず、迫害を受け続ける。

国家レベルにおいては「テロ支援国家」、宗教レベルにおいては「異端」という形でレッテルを張られる。

動物的行動において、同種の多数の集団が少数の集団を攻撃する事は珍しくない。
(ヒエラルキーにおいては、少数の上位の立場の者が多数の下位の立場の者を迫害する例はあるが、このヒエラルキー構造は容易に瓦解する可能性を秘めている為、迫害が成功したとしても、継続的に迫害を続行できる保証は無い)

これらの動物的行動は人という種とそれ以外とで違いは無いが、「正義」という概念を人という種が獲得した事によって、人という種はそれ以外の種から分岐してしまった。
そして、人以外の種に「正義」という概念は存在しない(ひょっとするとあるかもしれないけれど、人はそれを感知することが出来ない)。

それゆえ、テロリズムとは人という種のみに存在し、「迫害そのもの」が「それを実行するに足る正当な理由」になるのである。

テロリズムにおいて最も忘れてならない事実は、「昨日まで善良な市民であった者が、迫害を受けた事によって'今日から自己の命が果てるまで'テロリズムに手を染めざるを得ない状況に陥ってしまう」という事だ。
この事実は、<迫害>で記述した「右手でお互いが銃を突け付き合ったまま、左手で握手している」という状況とは全く異なり、非常に危機的な状況である。

<序章>で、

テロリズムを実行する者は、「自分がテロリズムを実行している」という認識がない、或いはその認識が減殺されている。

と記述した。

なぜ、認識がないのか?
それは、そもそも「テロリズム」という言葉を迫害する者が勝手に定義し、勝手に適用しているからだ。
この事は、「それを実行するに足る正当な理由」と同義である。
つまり、迫害に対する報復を「テロリズム」と称しているのである。

これが人という種におけるテロリズムの定義なのだ。