ケツァルコアトルって何?

最近、ブログ名を変更しました。まあ、普段、思ったことをまったりと書き上げます。よろしくどうぞ。ちなみに過去の記事についてはアメブロにて公開中です(関連リンクを参照のこと)。はてなブログに移行するか検討中...。あ~、それと商品・商業の宣伝の為のコメントはご遠慮願います。よろしくね~。

人が人として仕事をするという事

今日は久しぶりに自分のメンタルに関して書こうと思う。この記事を読まれる方は、元ネタが分かったとしても自分の胸にしまって置いて頂きたい。親しい友人同士で話題にするくらいならOKです。

まあ、あまりたいした話ではないのですが。

 

今日、私は機械だった。

 

自分の感情を押し殺し、理不尽な怒りの感情をぶつけられても、能面のような仮面を被ったまま、指示された通りの仕事をした。

 

状況をちょっと説明しよう。

今、仕事がかなり忙しい時期になっており、私もその仕事に参加し、積極的に関わっている。仕事が忙しい事、それ自体は私にとって問題ではない。去年も一昨年もこの時期は忙しかったし、今年も忙しくなるだろうと予め分かっていたからである。また、その為の多少の残業も大した苦にはならない。それよりも、ようやっと今の仕事が完了する目処がたったという充実感はある。でも、まだ、完全に終わったわけではなく、もう一頑張りというところだ。

 

そういった状況の中で、私が感じた問題について書こう。どちらかというと、グチとして片づけられてしまうかもしれない。しかし、私にとっては書かずにはいられないから書く!ある立場の人が、そんなものただのグチだろう、と片づけられてしまう事も承知で書く!そんなの世間じゃ通用しないよ、やっていけないよと言われても書く!

 

登場人物は私、スタッフのAさん(以下、Aさん)、スタッフのBさん(以下、Bさん)の3人である。実際の現場は私以外にも一緒に作業をしている仲間やスタッフさんがいるのだが、状況説明の都合上、この3人に絞る。

 

私(私達)は、スタッフの指示に従い作業する立場にある。私(私達)とスタッフとの間では、作業内容について、疑問があれば質問をするし、提案があれば提案するし、相談があれば相談する、といった割と風通しの良い関係性が存在する。作業内容の確認、作業の進捗状況の報告、作業の進捗の相談、作業の段取り、作業の分担等々が挙げられる。

 

昨日、私はAさんから今日行う、ある作業を指示され、私は今朝から気合を入れて作業に取り組んだ。今日、Aさんは午前中、別の場所で別の作業があったので不在だった。その為、昨日の時点で私はAさんから作業の指示を受けていたのだ。作業の締切りは本日中(つまり今日中)と私は勝手に思っていた。「本日の夕方くらいに郵送する予定」という事を数日前から聞いていたので、勝手に締切りを本日の夕方くらいと思っていたのだ。

 

私は朝、その作業をやりつつ、本日中に終わるか不安だったので作業の進捗速度を自分で確認した。何分間でどれくらいできるのか計ったのだ。計測が終わった時点で、スタッフに相談しようと思ったが、作業の途中に様子を見に来たBさんが「これくらいなら今日中に終わるよ!」と発言し、また、他の仲間達は他の作業に既に入っていたので、とりあえず午前中は自分一人でやって、昼の段階で進捗状況を見て、スタッフと相談する事にした。その後、午前中の5分間の休憩の時、Bさんに、この進捗速度だと一人では間に合わないから、午後は人を増やして下さいと相談した。Bさんは、「午後になったら人が増えるから、二人体制でやれば余裕だよ」と答えた。私はその答えに納得し、また、夕方までに完了すれば良いという認識が合っている事を改めて認識し、午前中の作業を一人でこなした。そして、午前中、自分なりに最善を尽くし、できるだけ速く作業を進める事に努めた。

 

私(私達)が昼食後、Aさんが帰ってきて、午後の作業を始める時、私は作業場に戻り、作業に入ろうとしたら、Aさんが既に私がやっていた作業を始めていた。しかも、Aさんは明らかに不機嫌な表情を浮かべ、私に作業の指示をした。私はAさんの指示に従ってAさんと一緒にその作業をした。私はAさんの不機嫌そうな態度に一種の恐怖を覚えた。途中でBさんが様子を見に来て、「すごい!かなり進みましたね!」と言ったら、Aさんは不機嫌そうに「そんなのあたりまえだよ!午前中に終わっているかと思った」と言った。私はそれを聞いて「はぁ?」と思い、怒りを覚えた。だが、私はその感情を押し殺し、押し殺し、押し殺し、その後も最後まで作業を進めた。二人でやって、約1時間で終わった。これは確かに早い。Aさんはとても優秀な方なので、多分、Aさん一人でやった場合、私よりも断然早いとは思う。しかし、あの数を一人で午前中に片づけるのは不可能だと感じた。あるいは複数人の体制でやれば、午前中に作業が完了するとAさんは想定していたのかもしれない。私はもちろん、前日からその想定も考慮し、Bさんに朝、相談し、とりあえず一人でやって進捗速度を計り、間に合わないと判断した時点で複数人体制でやるという事も考えていた。

 

つまり、Aさんの想定していた「午前中に完了させる」という認識と、Bさんの「夕方の郵送に間に合うくらいでok」という認識にズレがあったのだ。私はその認識のズレの可能性について想定していなかった。今までが今までだから、そのズレの可能性も想定していた方がよかったかもしれない。

 

それ以前に、自分にも責任の一端はある。昨日、Aさんから作業を指示された時、「いつまでに完了させれば良いのか」を確認しなかったのだ。もし、そこで「午前中には終わらせたいな」という回答を得ていれば、朝一番からBさんに作業の体制を相談できたはず。ただ、これは言い訳かもしれないが、「AさんとBさんとの間における(あるいは全てのスタッフの間における)、作業の締切り時刻や作業の優先順位に関する認識がスタッフという立場において完全に共有されている事」が大前提であるべき、と私(私達)は考え、その共有された認識の元、私(私達)はスタッフの指示に従い行動するのである。

 

だが、そのスタッフ間の認識のズレから理不尽な怒りをぶつけられると、私は本能的に守りの体制に入ってしまうのである。つまり、恐怖に取り憑かれて萎縮し、自分を機械にする事によって身を守る人間もいる、という事である。「恐怖?あんなので怖がってたら仕事なんてできないよ」と言われるかもしれない。それは確かにその通りである。私個人は過去約20年間、一般社会における社会人の経験を持っている。その中でこういったシチュエーションは沢山あった。私はその度に自分を機械化する事によって自分の身を守り、良い社員を演じてきた。しかし、そのような事を何回も繰り返すうちに次第に、自分が機械になる事に慣れてしまっていたのだ。そして、終いにはうつになった。

 

今の私は、人として仕事をする事ができる。これはとても大事なことだ。チームの目的を達成する為に自分の感情を一時的に押し殺し、仕事に邁進する事は良いと思う。それは押し殺すだけの価値がその仕事にあるからだ。

しかし、理不尽な感情をぶつけられて、その防衛本能として自分の感情を押し殺す事は、今の私には我慢できない(と言いつつ、今日は我慢してしまったが、腹の中では怒りで一杯だった)。

 

今日の出来事で、スタッフに対する今後のスタンスを考えてしまう一日であった。

 

グチ、おしまい!