ケツァルコアトルって何?

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迫害とテロリズムの罪と罰、そして、正義とは?<迫害>

<迫害>

自然発生的迫害は、ふとしたきっかけで始まる。

それは他者を理解できなかった場合、或いは理解しようとしたがそれが叶わなかった場合、自己の感情に恐れが芽生えた瞬間である。
自己は恐れを認識すると、自己防衛という免疫反応が起こる。生存本能といってもいい。
だが、人という種の場合、それだけでは迫害を説明できない。

人以外の種の場合は、他の種に対して、或いは同種であっても他の集団に対して迫害をする事はないが、自己が帰属する種、或いは集団は、それ自体を防衛する為に、或いは生存を計る為に、他の種、他の集団を攻撃するという動物的行為は存在する。

1.テリトリーの防衛的攻撃
2.テリトリーの奪取
3.自己の生存に必要な捕食
4.捕食をする為の訓練
5.天敵への防衛的攻撃

人という種の場合、上記と同等の動物的行為が認められるが、異なる部分が存在する。
まず人という動物には種レベルにおける天敵は存在しない(または、公には認められていない)。
また、自己の生存の為の捕食は動物とおおよそ同等だが、その役割は分業化され、さらに捕食量は需要を大きく上回る事も珍しくない。
捕食する訓練は、捕食が分業化された結果、獲物に直接、手を掛ける者しか行われない。
この点において、人という種は、間接的と言わざるを得ない「原罪」を忘れがちである。
これら3、4、5については、人という種とそれ以外の種では、異なると考えられる。

他の項目についても考察しよう。
テリトリーとはひとつの種における集団が物理的地理的な生活圏を定義する。
テリトリーは種の長によって支配され、その生活圏は長の指示の下、その集団によって他の集団から安全が守られるよう防衛的攻撃を行う。
また、場合によっては、他のテリトリーを攻撃し、奪取することもある。
この動物的行動は、人以外の種について述べたものだ。

しかし、人という種については、こう単純にはいかない。
したがって1、2についても人という種とそれ以外の種で、異なると考えられる。

人という種は、実に様々なレベルでテリトリーを定義する。

a.国家
b.民族
c.宗教
d.党派
e.個人の経済格差
f.学校
g.会社
h.肌の色
i.家庭

aについては、戦争という形で自己を主張し、他者を排斥する。
b、cについては、紛争という形で自己を主張し、他者を排斥する。
dについては、政争という形で自己を主張し、他者を排斥する。
e、f、g、hについては、差別という形で自己を主張し、他者を排斥する。
iについては、一見、他者を愛する形として見えてはいるが、実際には無意識に自己愛を主張し、愛すべき他者を排斥する。

無論、ここに挙げたレベルはほんの一部に過ぎない。
人という種は、何かと理由をつけてテリトリーで自己を縛り、縛ることによって自己が安心、安全へと導かれる事を信じている。

排斥という言葉を使ったが、現実にはそのような生易しいものではない。
現実には排斥ではなく、排除である。まず、間違いなく。
「そんな大げさな」という意見もあるだろう。
しかし、現実に排斥に留まらず、排除に至ってしまった世界的・ご近所の例は、枚挙に暇がない。

これが人という種における迫害の定義なのだ。
そして、その迫害の心理的状況は、とりも直さず我々一人ひとりが少しづつ持ち得るものである。
ここでいう我々とは、決して世界市民の事ではない。
あらやるレベルのテリトリーに縛られている市民なのだ。

「お隣の国は何を考えているか分からないから危険だ。防衛の為に軍備を強化しよう。」
から
「お隣に住んでいる人の肌の色は私と違うから気味が悪い。何を考えている分からない。防衛の為に銃を購入しよう。」

まで実に様々なレベルで免疫反応が起こる。
そして、これは始まりに過ぎない。

次の段階では、

「お隣の国は何やら軍備を強化しているぞ。攻撃の準備かもしれない。こちらも防衛の為の攻撃の準備をしよう。」
「お隣に住んでる人は何やら最近、銃を購入したらしい。こっちも自衛の為の銃を購入しよう。」となる。

そして、最終的には、全てのレベルにおいて、

「こっちは攻撃の準備は万全だ。だから攻撃するなよ! 絶対だ! 絶対だぞ!」
(ちなみに「早いとこ、攻撃しろ」というギャグ的フリではない)

とお互いを牽制し合う。

この状況は国家レベルの視点でみると、今日では既に有効性が絶たれているが(もしくは国家としては到底、無効だということを認めたくはないが)、「核抑止力」という形になる。
国家間の核戦争は、核による報復攻撃が想定される為、右手でお互いが銃を突け付き合ったまま、左手で握手しているようなものである。
これが核抑止力による極一時的な、そして、酷く脆い平和である。

だが、これが民族、宗教レベルでは、状況が一変する。
民族や宗教は物理的地理的なテリトリーに縛られない、論理的思考的なテリトリーだからである。
それゆえ、民族、宗教レベルの闘争は、国家を跨いで全世界的同時的に発生する。

ある個人が、どの民族に帰属し、どの宗教を信仰するのか、といった事はその個人の問題であり、他者が口を挟むことではない。
しかし、現実には口を挟む他者が存在し、その個人を排除しようと企み、それを実行に移す。

なぜ、口を挟む者が存在するのか?
その理由は、いくつかあるが、一番シンプルな理由は、他の民族、他の宗教を理解する事ができず、自己の感情に恐れが芽生えるからだ。

さて、ここまで論じてきた考察には、多分に疑問点があるだろう。
だが、まだ、考察は終わっていない。
まだ、この話に興味を示される方は、引き続き付き合って頂きたい。