ケツァルコアトルって何?

最近、ブログ名を変更しました。まあ、普段、思ったことをまったりと書き上げます。よろしくどうぞ。ちなみに過去の記事についてはアメブロにて公開中です(関連リンクを参照のこと)。はてなブログに移行するか検討中...。あ~、それと商品・商業の宣伝の為のコメントはご遠慮願います。よろしくね~。

迫害とテロリズムの罪と罰、そして、正義とは?<罪と罰>

<罪と罰>

迫害とテロリズム
この二つの関係性は、上部に伸びる螺旋状の構造となっており、上部に伸びるに従って螺旋の径が広がる。
螺旋の径は規模を示しており、上部方向は時間軸である。
そして、螺旋そのものは迫害とテロリズムが相互に繰り返し、繋がっている。

最初に迫害があり、そして、報復としてのテロリズムがある。
そのテロリズムに対して、迫害する者は更に大きな力で迫害を実行する。
その迫害に対して、虐げられた者は更に大きな力でテロリズムを実行する。
そうしてこの螺旋はすくすくと成長する。
まるで大蛇の如く。

虐げられた者にとって、迫害とは「罪」以外の何者でも無い。
だが、迫害する者は迫害を認識しない以上、自らの罪を贖う事は、決してしない。
それゆえ、虐げられた者は迫害され続け、テロリズムを実行せざるを得ない状況に陥る。
テロリズムが実行された時、迫害する者はテロリズムを断罪し、「罰」として更に迫害を強化する。

そうして迫害される者は生存権さえ奪われかねない危機的状況に陥ってゆくのである。
(生存権とは、自己の生存だけとは限らない。自己に関係するあらゆる他者「両親、兄弟、親戚、戦友、同志、友人、知人、そして、指導者」も含まれる)。
他者を迫害によって失い、生きる希望をこの世界に見出せなくなった者はテロリズムを実行することによって迫害する者に訴える。

「なぜ、私達を迫害するのか?」
「なぜ、私達が暴力を受けなければならないのか?」
「なぜ、私達が殺されなければならないのか?」

そして、テロリズムを実行する者は、自己をこの世界から「脱出」させる事で、迫害によって亡くなった者に再び会う事を望んでいるのである。

テロリズムによって自己の命を捨て、亡くなった者に再び会う事が出来るのかは分からない。

だが、これだけは言える。
その訴えは決して、迫害する者には届かない。
そして、テロリズムを実行する者はその事に気付いている。
それでもなお、テロリズムが実行されるのは、「亡くなった者に会える」というたった一つの希望があるからである。

ある少年がいた。
少年は明るい性格で一見、幸せそうに見える、どこにでもいそうな少年だ。
ある時、少年は街中で鼻を突き出し、「何か」を嗅ぐ仕種をし、こう言った。

「でも死ぬ事を考えるのは嫌いじゃない。だって、死ぬ事を考えると母さんの匂いがさ、こんなふうにするんだ」

少年は数日後、"それ"を実行した。
その瞬間、少年の表情には「笑み」があった。

いったい、何が「罪」で、何が「罰」なのか?
問わずにはいられない。