迫害とテロリズムの罪と罰、そして、正義とは?<正義とは?>
<正義とは?>
正義とは何か、考えた事があるだろうか。
この世界では、実に様々な正義が存在する。
大きなレベルにおいては国家、民族、宗教、小さなレベルにおいては個人の立場、関係性など、様々な要因によって正義は定義される。
正義は世界で一つではない。非常に多くの正義が存在するのである。
問題なのは、人という種が正義を定義する時、「その正義だけが唯一無二の正義である」と定義した場合である。
そして、これを定義した者は、他者にこの正義を押しつけるケースが少なくない。
他者がその正義を受け入れない場合、正義を定義した者は正義を大儀とし、迫害を実行する。
これは自然発生的な迫害ではない。人為的な迫害である。
警察権において、正義の正当性を証明することは可能なのか?
国際社会において、正義の正当性を証明することは可能なのか?
ご近所付き合いにおいて、正義の正当性を証明することは可能なのか?
自己の中で信ずる確固たる正義について、正当性を証明することは可能なのか?
「正義とはなんと、うさん臭い代物だろう」と思うかもしれない。
正義は、それを計る物差し(基準)がなければ正当性を証明できない。
その物差しが複数存在して、それが相反する関係性を持つのであれば、それらの物差しを別の物差しで計らなければならない。
だが、その物差しでさえ、それ自身の正当性を証明する必要がある。
全世界、全ての人が納得する共通の物差しというものは、存在し得ない。
それゆえ、全ての人が納得する正義というものもまた、存在し得ない。
それゆえ、国家、民族、宗教、個人など、様々なレベルにおいて、正義の多様性が存在し得るのである。
多様な正義があって良い。
これは決して、その時々の都合に合わせて正義を都合よく改竄することではなく、また、都合よく解釈するものでもない。
そうではなく、様々なレベルの自己の信ずる確固たる正義があれば良い。
相反する正義に対しては、「対話」によってお互いの立場を理解しようとする努力を続けることが肝要である。
状況によっては「対話」のレベルを越え、「交渉」のレベルに遷移する局面もあり得る。
その場合、いかなる犠牲を払ってでも「交渉」を諦めない確固たる意志が必須となる。
決して、「正義」を大儀とし迫害を実行する状況に、自らを貶めてはならない。